昔、音楽の授業で短調は悲しい曲、長調は明るい曲と習った覚えがあります。
日本の童謡には、短調も長調もありますが、ひな祭りの歌はれっきとした短調ですね。
なぜひな祭りという女の子のお祭りで、物悲しい短調の曲がいまでも歌い継がれ、私たちの心に深く根付いたのでしょうか。
今日はひな祭りの歌「うれしいひなまつり」 についてその秘密を探ります。
ひな祭りの歌が悲しい理由
「あかりをつけましょ ぼんぼりに。。。」
私も、1番は歌詞を見ないでも歌えますが、実はこの歌は4番まであるということはご存知でしたか?
作詞をしたサトウハチローさんは、大正から昭和にかけて波乱万丈な人生を送りました。
この詞を作ったのが昭和10年。1935年のことです。
妻と別居して3人の子供を引き取っていたサトウハチローさんが、上の2人の女の子に豪華な雛飾りを買ってあげたというエピソードが残っています。
それは大卒の初任給の4倍もする雛飾りで、当時にしては珍しい電飾の灯りがつくものでした。
母親と引き離してしまった子供たちを不憫に思い、償いの気持ちがあったのかも知れません。
子供たちが飾りつけたひな壇の電気の灯りを嬉しそうにつけたり消したりする姿をみて、この詞が浮かんだのだとも言われています。
この詞の有名なエピソードは、結婚式を目前に結核で亡くなったお姉さんを偲んでその想いが込められている一行があるというもの。
二番の歌詞の後半に、
”お嫁にいらした ねえさまに よく似た官女の 白い顔”
ここでいう「お嫁にいらした」というのは、「お嫁に来た」ではなく「お嫁に行った」という解釈になりますが、
実際には、お姉さん(喜美さん)はお嫁に行くことなく19歳で亡くなっています。
年齢から逆算するとお姉さんが亡くなったであろう年はおそらく1910年の前後。
当時の日本では結核が全国で猛威をふるい国民を震撼させていましたが、特効薬もなく結核の症状で苦しみながら亡くなったお姉さんの姿はおそらくサトウハチローさんの生涯を通じて決して忘れられないものとして深く刻み付けられたのだろうことは、想像に難くないですね。
だからといって、曲も短調で物悲しいものになったのか?ということでは実はありません。
ひな祭りの歌は短調ではない!?
作詞はサトウハチローさんでしたが、作曲したのは河村光陽さんという有名な作曲家です。
オリジナルの「うれしいひなまつり」は昭和11年にポリドールレコードから河村さんの長女河村順子さんの歌唱で大ヒットとなりました。
この時代にちょうど幼稚園~小学校を迎える世代は、いま80代のおじいちゃん、おばあちゃんです。
この世代の人たちの心に残る日本の歌はほとんど短調のものが多いです。
青い山脈
りんごの唄 (こちらもサトウハチローさん作詞です)
赤い靴
童謡も歌謡曲も短調。
私の父もちょうどこの世代なのですが
父に言わせるとこれらの曲で「物悲しい」「寂しい」という印象はまったく受けないといいます。
私たちも別に長調の曲を聴いたからといって、楽しい気分になるとは限りませんよね。
世代によって、音楽に抱く思いというのは違いますが、少なくとも「うれしいひなまつり」が大ヒットした当時の人たちにとっては、心に残る素敵な歌だったということは間違いありません。
ひな祭りの歌が長調で作られなかった理由
ひなまつりの曲は、実はなるべくしてあの曲調になったのです。
ひなまつりの曲の音階は、分かりやすい「日本音階」という、西洋音楽の音階とは違うメソッドで構成されています。
実は作曲家の河村光陽さんは、うれしいひなまつりをお琴にあわせて演奏できるように意識して作りました。
日本人の心にすっと入り、覚えやすく、現在でも歌い継がれてきた理由。それはお琴の演奏で使われる音階だからだったのですね。
ちなみに、もしもこの曲が長調で作られていたとしたら・・・・・演歌風になります。
長調で聞きたい人は、Youtubeで「うれしいひなまつり 長調」と検索してみてください。
やはりオリジナルの「たのしいひなまつり」でないとしっくりきませんね。長調だったとしたら大ヒットはしなかったような気がします。
まとめ
たのしいひなまつりの曲調についてお伝えしました。
やはりひな祭りには、この「うれしいひなまつり」は欠かせません。
せっかくの伝統の行事ですから、娘さんと一緒に歌ってあげてくださいね。